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私のこと①

 

ブログまで足を運んでくださいましてありがとうございます。

私のことを少しずつお話しさせていただきますが、どうぞ気軽な気持ちで読み進めていただけたら嬉しいです。


子供の時の写真

改めまして、ともこ と申します。

私は、兄と弟に挟まれた三人兄弟の真ん中で育ち、

幼いころから動物が大好きでした。

 

夢はイルカのお姉さんになること!

 

幼少期から犬や猫と暮らし、

祖母の介護の影響でたくさんの人が出入りする家庭で育ちました。

 

 

 

男兄弟に挟まれ、木登りやザリガニ釣りなど活発でありながら、

読書も好きで、割と小さいころから

「人は何のために生まれるのか」とか「死んだらどうなるのか」なんていうことを考えるのも好きでした。

人の感情に敏感で、想像力と共感力が強い一面もありました。

 

転機となったのは中学3年生になったころ。

担任の一言がきっかけとなり、ぱたりと学校に行けなくなりました。

 

悩んでいることを相談したら「あなたなら大丈夫だと思った」と言われたのです。

別段、なんてことのない言葉なのですが…。

 

でも当時の私はとても傷つき、裏切られたような失望と怒りの気持ちを抱いたことを覚えています。

大人や組織や、自分を取り巻くいろいろが、もう全部受け入れられなくなってしまいました。

 

両親のケンカ

要介護5の祖母の存在

家庭のギスギスした空気

 

学校生活や塾

思春期で子供時代と関係が変わる友達

クラス替えの度に再構築する人間関係

周囲の人たちとのかかわり

 

今思えば、色んな要素が積み重なって、限界になっていたんだと思います。

 

「家庭・学校・塾が世界」だった14歳なりの限界の示し方だったのかもしれませんね。

かなしいのこころ

 

不登校になってしばらくは、

すべてを締め出し、殻に閉じこもり、

罪悪感と自己否定に悩み、生きることがただつらく苦しい時期でした。

 

自分の部屋のものを手当たり次第投げて、部屋中ぐちゃぐちゃにしたこともありました。

いじめがあったり、何か特別大きな出来事があったわけではありませんから、

家族はとても心配して混乱したと思います。

 

家族を苦しめていることも理解していましたので、

自ら命を絶とうと、自室でカッターの刃を手首に当てたこともありました。

 

でも、あれって本当に痛いんです…。

すぅっとほんの薄く切れただけなのに、その小さな傷からちょっぴり血がにじんで…

ただそれだけなのに痛くて痛くて、じんわり涙が出るほどでした。

 

(今では笑い話ですが、本当に痛かったんですよ?(笑))

 

 

ドバドバになるには、これ以上の深く切らなきゃいけないのかと怖くなり、

そして、その恐怖と一緒に家族の顔が浮かんだのです。

 

もし、部屋で冷たくなった自分を家族が見つけたら?

一体どれだけ悲しませることになるだろう?

お葬式でどんな顔をさせてしまうのだろう?

今よりももっと苦しませてしまう。そんなことはできない。

と涙があふれて、踏みとどまることができました。

 

それでも当時は、「自分で死ぬことすらできないなんてなんて情けない」とさらに自己嫌悪…。

今となっては、「よく踏みとどまったね!えらい」と自分をほめてあげたいです。

 

 

 

当時は、自分のことで精一杯でしたが

家族にとっても、つらい時期だったと思います。

でも家族は、私を否定したり世間に隠そうとすることはせず、普通に接してくれていました。

 

「家事、手伝って~」

「留守番よろしく~」

「平日は安いし、一緒に映画にいくか~」

「ランチいこか~」 

 

なんて外に連れ出してもくれましたので、

けっこうオープンな引きこもりでした(笑)

 

大人になって知ったことですが、

母は不登校児の親のための会に参加したりカウンセリングを受けていたそうです。

 

母の努力のおかげで、”オープン引きこもり”でいられたのですね。本当に感謝です。

祖母の介護で、ヘルパーさんや看護師さんたちが出入りしていたことも、よかったのかもしれません。

 

「開けない夜はない」なんて言葉がありますが、本当にその通りで、

母を中心に根気強く待っていてくれた家族のおかげで、

幸いにも1年でこの状況から抜け出すことができました。

海の画像

私のこと② の記事では、不登校から抜け出した後の人生の変化についてお話ししていく予定です。